万福丸の最期については、当時の第一級史料とされる『信長公記』をはじめとする複数の軍記物に記録が残されています。しかし、そこに記された処刑の様相は、幼い子どもに対するものとしてはあまりに凄惨なものでした。
処刑が行われた場所は、近江と美濃の国境に位置する関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)、あるいは越前・敦賀と伝えられています。『信長公記』の記述によると、万福丸は関ヶ原に引き立てられ、「磔(はりつけ)」によって処刑されたと記されています。さらに後世の軍記物の中には「串刺しの刑に処された」と生々しく書き残すものもあります。
武士の処刑であれば、名誉ある「切腹」や、苦痛の少ない「斬首」が一般的です。しかし、信長があえて罪人用の「磔」という見せしめの極刑を選んだ背景には、「裏切り者・浅井長政の血筋は武士として遇さない」という強烈な威嚇と、近江の領民・旧臣に向けた絶対的権力の誇示があったと分析されています。