高畑勲監督によるアニメ版を観た多くの観客が抱く共通の感情は、「なぜ親戚の叔母はこれほどまでに兄妹へ冷酷にあたるのか」という怒りや疑問でした。しかし、実写化された2作品は、まさにこの疑問に対する批評的なアンサーを提示しています。
特に火垂るの墓 ドラマ 松嶋菜々子が演じた澤野久子の描写は、従来の悪役像を根底から覆すものでした。夫を戦死で失い、4人の子どもを抱える未亡人となった久子は、当初は身寄りをなくした清太と節子を温かく迎え入れます。しかし、激化する空襲、枯渇していく配給米、そして自分の子どもたちが飢餓寸前に追い込まれる極限状態の中で、久子の優先順位は否応なく「我が子を生かすこと」へと狭まっていきます。
ドラマ版のプロデューサーや演出陣が当時の特番インタビュー等で語った記録によると、「久子を単なるモンスターとして描くのではなく、もし自分が当時の母親なら同じ行動を取らなかったと言い切れるか」という重い命題が脚本(井上由美子執筆)に込められていました。清太が持参した母の着物を米に替え、自分の子どもたちには雑炊の底から米粒をすくい、清太と節子には薄い汁ばかりをよそうシーンは、エゴイズムであると同時に、当時の配給制度下における冷徹な「生存の計算」でもあったのです。
一方、火垂るの墓 映画 松坂慶子が演じた本城キヨは、悪気のない無自覚な厳しさと、世間体や共同体の規範を重視する「当時の一般的な大人」の姿を体現しました。松坂慶子の持ち味である柔らかな佇まいの中に潜む冷ややかな視線は、戦争という非常時において「働かざる者食うべからず」という当時の常識が、いかに年端もいかない子どもを精神的に追い詰めていったかを浮き彫りにしています。
【プロの分析】家族社会学と心理的境界線(バウンダリー)から見る「叔母の正当性」
詳細を見る家族社会学の視座において、戦時体制下の日本農村・都市近郊コミュニティは、個々の「家」単位で極めて排他的なサバイバルを強いられていました。現代の福祉セーフティネットが存在しない時代、血縁関係であっても直系家族以外の扶養は致命的な共倒れを意味したのです。
心理学における「心理的境界線(バウンダリー)」の観点からも、久子やキヨの行動は自己防衛の帰結といえます。清太が家事や防空活動に参加せず、プライドを保ったまま居候を続けようとした態度に対し、叔母側の境界線防衛が「冷遇」という形で表出しました。実写版は、善悪の二元論を超えた人間の業を容赦なく描き切っています。