三種の神器にまつわる最大の歴史ミステリーが、1185年の壇ノ浦の戦いにおける「草薙剣水没事件」です。
平家一門が源氏に追い詰められた際、二位の尼(平時子)は8歳の安徳天皇を抱き、腰に草薙剣を差し、八尺瓊勾玉の箱を抱えて関門海峡の荒海へと入水しました。激戦の後、源氏方は海中捜索を行いました。
結果として、八咫鏡(宮中の形代)と八尺瓊勾玉は木箱が浮き上がったことで回収に成功しましたが、草薙剣だけは海底深くに没し、二度と発見されませんでした。
「では、現在の皇室にある草薙剣は何なのか?」という疑問が生じます。歴史学および神道史の検証によると、沈んだのは「崇神天皇の時代に作られた形代の剣」であり、熱田神宮に祀られていた本体は無傷でした。その後、後鳥羽天皇や土御門天皇の時代に、伊勢神宮の神庫より献上された霊剣が新たな宮中の形代として定められ、現在まで継承されています。
もう一つの根強い疑問が「三種の神器を実際に見た人はいるのか」という点です。
結論から言えば、現代においてその姿を目視した人間は原則として存在しません。天皇陛下ご自身であっても、箱や錦の袋(御衾)を開けて中身を直接見ることは禁忌とされています。神宝は「見るものではなく、気配として感得し敬うもの」とされているためです。
歴史上の記録を遡ると、禁を犯して神器を見ようとした者たちの生々しい手記や古記録が残されています。
- 冷泉天皇の開扉未遂(平安時代):『愚管抄』などの記録によると、好奇心の強かった冷泉天皇が八尺瓊勾玉の入った箱を開けようとしたところ、箱の隙間から白い煙が立ち上り、恐れおののいて断念したと伝えられます。
- 熱田神宮の草薙剣目撃記録(江戸時代):江戸時代中期の神道書『玉匣記(ぎょくこうき)』によると、熱田神宮の神官数名が社殿修繕の際、極秘裏に草薙剣の神体を収めた唐櫃を開扉したと記されています。中には長さ約80cm、白銅製で錆のない、蒲の穂のような形状の刀剣が収められていたとスケッチ付きで記録されました。しかし、関与した神官たちがその後相次いで重病に倒れたり急死したりしたため、「神罰の祟り」として畏怖され、以後は絶対秘匿の掟が厳格化されました。