等伯が足を踏み入れた当時の京都画壇は、絶対王者として君臨する狩野派の独壇場だった。その頂点に立っていたのが、圧倒的な才能と政治力で豊臣秀吉ら権力者を牛耳っていた狩野永徳である。
地方出身の無名画師に過ぎなかった等伯にとって、狩野派はあまりにも巨大で冷酷な壁だった。等伯が自らを「雪舟五代」と名乗り、大徳寺三門の天井画制作などの大仕事を獲得しようとするたび、永徳は露骨な圧力と政治工作でこれを妨害した。権力と画壇の利権を守るためなら手段を選ばない狩野派の包囲網。等伯は文字通り孤立無援だった。
だが、永徳の急死によって均衡が崩れる。等伯は千載一遇の好機を逃さず、秀吉の心を捉える大作を次々と手がけ、狩野派の独占体制に風穴を開けた。命がけの権力闘争を生き抜いた執念こそが、彼の表現に比類なき凄みを与えている。