佐伯奈々子の最後がこれほど胸を打つのは、彼女が中学時代に背負わされたトラウマが筆舌に尽くしがたいほど過酷だったからに他なりません。事の発端は、放課後の教室で春日高男が衝動的に佐伯さんの体操着を盗んでしまった事件でした。
当時の佐伯奈々子は、容姿端麗で成績優秀、誰もが憧れる絵に描いたようなクラスのマドンナでした。しかしその実態は、教育熱心な母親の過干渉と周囲からの「完璧な美少女」という押し付けられた役割に窒息しかけていた一人の脆い少女に過ぎませんでした。春日から突如として向けられた告白を受け入れたのも、彼が持つ独特の文学的感性に、自身の閉塞感を打ち破ってくれる何かを期待したからでした。
しかし、現実は残酷でした。春日の意識を完全に支配していたのは、体操着盗難の現場を目撃し春日を隷属させていた仲村佐和でした。二人だけの閉じた共犯空間に入り込めない佐伯さんは、激しい疎外感と嫉妬に苛まれ、徐々にその精神を破綻させていきます。
「春日君の全部が欲しい」と山中で春日に関係を迫り、挙句の果てには教室を黒板用インクで埋め尽くした春日と仲村の凶行を目撃。さらには夏祭りの夜、町民の前で心中を図ろうとする二人を目の当たりにした佐伯さんの精神的打撃は壊滅的でした。信じていた世界が音を立てて崩れ去り、彼女は人間不信と自尊心の崩壊という巨大なトラウマを抱えたまま、町を離れることを余儀なくされたのです。