隆盛を極めた根津遊郭ですが、その黄金期は長くは続きませんでした。開郭からわずか十数年後の1888年(明治21年)に移転命令が下され、1890年(明治23年)にはすべての遊女屋が洲崎遊郭への移転を完了させます。これほど大規模な遊郭が短期間で姿を消した背景には、日本の国家戦略が深く関係していました。
最大の根津遊郭 移転理由となったのが、根津遊郭と東京大学の極めて近い物理的距離です。1877年(明治10年)、加賀藩前田家の上屋敷跡地(現在の文京区本郷)に東京大学が統合・設置されました。大学キャンパスが置かれた本郷台地と、低地に広がる根津遊郭はまさに目と鼻の先。本郷通りから坂を下れば、数分で華やかな歓楽街に足を踏み入れられる立地だったのです。
最高学府で学ぶ国家の若きエリートたちが遊郭へ通い詰め、学業を疎かにしたり風紀を乱したりすることを、明治政府や大学当局は深刻な問題と捉えました。とりわけ初代文部大臣を務めた森有礼をはじめとする指導層は、国家の近代化を担う学生の教育環境浄化を強く主張。警視庁や内務省を巻き込んだ議論の末、遊郭全体を当時東京の東端であった深川洲崎(現在の江東区東陽)の埋立地へと強制移転させる決定が下されたのです。