百人一首を手にした誰もが抱く疑問が、「百人一首 2番 持統天皇 なぜ、この位置に据えられたのか」という点です。1番が天智天皇、2番が持統天皇。この冒頭の並びには、撰者・藤原定家による冷徹な計算と、王朝の歴史観が明確に反映されています。
持統天皇 天智天皇 関係を整理すると、持統天皇(幼名:鸕野讚良皇女・うののさららのひめみこ)は天智天皇の実の娘です。小倉百人一首の冒頭は、実に「父から娘」へと至る純粋な皇統の直系リレーで構成されています。ここに定家が仕掛けた歴史的意図が存在します。
歴史の皮肉というべきか、持統天皇の夫は、天智天皇の弟であり、のちに天智の息子である大友皇子(弘文天皇)を激しい内乱(672年の壬申の乱)で倒して即位した天武天皇です。もし王統の純粋な年代順・治世順に従うのであれば、天智天皇の次に置かれるべきは天武天皇のはずでした。しかし、定家は天武天皇を完全に排し、天智天皇の娘である持統天皇を2番に抜擢しています。
定家が生きた鎌倉初期、朝廷と幕府の緊張が高まる政治状況下で、公家社会において理想とされたのは「天智天皇系の正統王朝」でした。壬申の乱という武力クーデターによって天智の直系を退けた天武天皇の影を和歌の正史から巧みに消し去り、天智から娘・持統、そして後の平安王朝へと続く「文治の正統」を強調するために、この1番・2番の父娘ラインが絶対の必然として設計されたのです。小倉百人一首に収められた女性天皇は、100首中この持統天皇ただ1人という事実も、彼女が背負わされた象徴性の高さを物語っています。