大宝律令の発布時、玉座に座していたのは文武天皇である。父である草壁皇子の早世により、祖母の後見を得て幼少期から権力の頂点へと押し上げられた。経験の浅い若き君主が群臣の上に君臨するためには、絶対的な正統性を明文化した「法の盾」が不可欠だった。専制君主としての専断を避ける一方で、不可侵の神聖性を法的に担保する。この二律背反を具現化したのが、不世出の政治家・藤原不比等だった。
不比等は、父・中臣鎌足の功績を継承しつつも、藤原氏が皇室の外戚として永続的に権力を握るグランドデザインを描いていた。律令の制定によって、天皇を「法の枠組みによって保護される最高権威」と位置づけ、自らはその法を運用する最高実務者として君臨する。教科書が語る「中央集権化」という美名の下には、皇統の安定を望む若き天皇と、一族の栄華を画策する不比等との利害の一致が存在していた。