雪の降る夕暮れ、いかりやさんの自宅前で待ち続けること十数時間。帰宅したいかりやさんに「弟子にしてください」と直談判した志村さんは、熱意を認められてボーヤ(付き人兼運転手)としての採用を勝ち取ります。しかし、そこから始まったのは想像を絶する極貧と激務の日々でした。
当時の付き人の基本給はわずか5,000円程度。加藤茶さんの付き人を務めながら、機材の搬入や舞台のセット設営、師匠たちの身の回りの世話をこなす毎日で、睡眠時間は連日2〜3時間という過酷さでした。銭湯に行く金もなく、空腹に耐えかねて先輩たちの食べ残しを口にすることも日常茶飯事だったと伝えられています。
そんな下積み生活の中、志村さんに転機が訪れます。1972年、同じく付き人だった井山淳さんと共にお笑いコンビ「マックボンボン」を結成。コンビ名「志村健」を名乗り、芸能界の表舞台へと打って出ました。身体を張ったアクロバティックなコントが評価され、日本テレビ系の冠番組『ぎんぎん!ボンボン!』でレギュラーを獲得するなど、順風満帆な滑り出しに見えました。
しかし、現実は甘くありませんでした。相方の芸能界引退による失踪、さらに視聴率の低迷という重圧に押し潰された志村さんは、精神的に追い詰められ、自らも所属事務所やドリフのもとから逃亡を図るという挫折を味わいます。しばらくの間、新宿のジャズ喫茶やバーでバーテンダーとして働き、芸能界から完全に身を引く生活を送っていました。しかし、その才能を誰よりも惜しんでいたのが、他ならぬ師匠のいかりや長介さんでした。「もう一度やり直してみるか」といういかりやさんの寛大な救いの手により、志村さんは再びドリフの付き人として頭を下げて復帰を果たしたのです。