慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いで幸村は討死し、豊臣家とともに真田本流も滅亡したかのように語り継がれてきました。しかし、大坂の陣における真田幸村の子孫の生存は、戦国史屈指のドラマチックな救出劇によって実現していたのです。
決戦の前夜、自らの死期を悟った幸村は、敵方である伊達政宗の重臣・片倉小十郎重長(鬼小十郎)の武勇と人格を見込み、秘かに使者を送りました。託されたのは、三女・阿梅をはじめとする幼き我が子たちでした。小十郎は激戦の最中に彼らを密かに陣中へ引き取り、自らの本拠地である白石城(現在の宮城県白石市)へと連れ帰ったと記録されています。
徳川幕府による厳しい詮索から守るため、子どもたちは当初身元を隠して養育されました。幸村の娘・阿梅はのちに片倉重長の後妻となり、次男の大八(のちの真田守信)は片倉姓を名乗って仙台藩に仕官。こうして幸村の血脈は、伊達家の庇護のもとで奇跡的に後世へと繋がれることになりました。