出浦昌相の後半生において極めて興味深いのが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける立ち回りです。この合戦において、父の真田昌幸と次男の真田信繁(幸村)は西軍に味方し、長男の真田信之は東軍(徳川方)に就くという「犬伏の別れ」を決断しました。
この運命の分岐点において、昌相は真田信之に従う道を選びました。昌幸に対する忠義を持ちながらも、真田の家名を残すための大局的な判断に従い、信之の配下として沼田城や上田周辺の治安維持・防衛に尽力したと記録されています。信之からの信頼も極めて厚く、戦後は更級郡の上平城代に任ぜられ、領内統治に辣腕を振るいました。
出浦昌相の最期と死因については、長らく諸説が飛び交っていましたが、松代藩の公的記録や菩提寺の過去帳によると、元和9年(1623年)に病没したと伝えられています。享年は78歳から80歳前後と推測され、当時の武将としてはかなりの長寿を全うした大往生でした。過酷な乱世と情報戦の最前線を駆け抜けた男が、畳の上で穏やかに生涯を閉じたという事実は、彼の自己管理能力と生存戦略の巧みさを象徴しています。
昌相の血脈である子孫の現在を追うと、その家系は信濃松代藩(10万石)の重臣として確固たる地位を築きました。出浦家は江戸時代を通じて代々筆頭家老などの要職を歴任し、明治維新まで藩政をリードし続けました。現在でも長野県内を中心にその末裔の方々が健在であり、歴史研究会や史跡保存会などを通じて祖先の功績を大切に守り伝えています。
また、長野県坂城町に現存する出浦城跡は、昌相とその一族が拠った山城の遺構を今に留めています。急峻な尾根を利用した郭(曲輪)や堀切、土塁が良好な状態で残されており、標高差のある山道を登ると、千曲川流域を一望できる戦略的要衝であったことが直感的に理解できます。訪れる歴史ファンにとっては、昌相の知略に思いを馳せる格好の史跡探訪スポットとなっています。