4兄弟は、軍部台頭から太平洋戦争、敗戦と戦後復興という激動の20世紀を異なる視点と立場で生き抜きました。それぞれの弟宮が歩んだ独自の経歴と人物像を振り返ります。
1. 秩父宮雍仁親王:悲運の皇弟と「スポーツの宮様」
次男の秩父宮は、イギリス留学(オックスフォード大学マドレン・コレッジ)を経験し、民主主義的な英国流の気風を肌で吸収した国際派皇族でした。登山やスキー、ラグビーを愛好し、現在もその名を冠する「秩父宮ラグビー場」や記念富士登山レースなどに足跡が残されています。
しかし、陸軍歩兵将校として歩む中で、陸軍青年将校らから「革新のシンボル」として祭り上げられる政治的苦悩を味わいました。1936年の二・二六事件では、反乱将校たちとの思想的近さから立場が危ぶまれましたが、天皇に対する絶対の忠誠を貫きました。太平洋戦争期には肺結核を患い、神奈川県鵠沼や静岡県御殿場での長期療養を余儀なくされ、1953年に50歳の若さで薨去(こうきょ)しました。
2. 高松宮宣仁親王:海軍軍人として和平を模索した直言の人
三男の高松宮は、有栖川宮家の祭祀と海軍軍人としての伝統を継承し、海軍大学校を卒業して大佐まで昇進しました。徳川最後の将軍・徳川慶喜の孫である喜久子妃と結婚したことでも知られます。
高松宮の最大の特徴は、昭和天皇に対しても物怖じせず直言できる気骨でした。『高松宮日記』に克明に記されているように、日米開戦前夜から早期講和を主張し、軍令部にあって海軍首脳や木戸幸一内大臣、米内光政らと連携して和平工作(終戦工作)に奔走しました。戦後は日本美術協会総裁や高松宮妃癌研究基金の支援など、文化振興と医療支援に生涯を捧げました。
3. 三笠宮崇仁親王:100歳まで学問と平和を追究したオリエント史学者
四男の三笠宮は、支那派遣軍参謀として日中戦争の最前線(南京)に赴任した経験を持ちます。現地軍の規律弛緩や軍事行動の欺瞞に深い衝撃を受け、軍部首脳に対して痛烈な反省を促す文書『わが歴史習作』を執筆・配布したエピソードは歴史的に著名です。
敗戦後は東京大学で古代オリエント史を学び直し、皇族でありながら一研究者・大学講師として自立した学者生活を送りました。1950年代の「紀元節(現・建国記念の日)」復活論争では、歴史学的な客観性を重視する立場から慎重論を唱え、右翼団体から激しい攻撃を受けるなど、自らの良心に従って平和と歴史の真実を発信し続けました。2016年に100歳の天寿を全うしました。