長嶋一茂氏のキャリアを振り返る上で、父と同じ「立教大学野球部」からプロの世界へと足を踏み入れた経歴は避けて通れません。名門・立教高校から立教大学へと進学した一茂氏は、東京六大学野球で主将を務め、通算11本塁打を放つなどスラッガーとして頭角を現しました。1987年のドラフト会議ではヤクルトスワローズと大洋ホエールズが1位指名で競合し、鳴り物入りでプロ入りを果たします。
1993年、父・茂雄氏が読売ジャイアンツの監督に復帰したタイミングでトレード移籍を果たしますが、ここからが一茂氏にとって最も過酷な試練の始まりでした。「監督の息子」という色眼鏡で見られ、一挙手一投足が球団内外で批評される中、過度のストレスから重度のパニック障害と過呼吸を発症。自著でも「球場に向かう首都高速で息ができなくなり、死の恐怖に襲われた」と当時の壮絶な苦痛を生々しく告白しています。
そして1996年オフ、監督室に呼ばれた一茂氏は、実の父親である茂雄監督から直接「来期の戦力構想に入っていない」と告げられ引退を決意しました。家族としてではなく、プロ野球チームの指揮官として下された冷徹な宣告は、当時の彼に計り知れない衝撃を与えましたが、同時に「父の庇護」から完全に抜け出すための儀式でもありました。