宇喜多秀家の八丈島50年|極貧の流刑地で五大老最期を生き抜いた真実の注目されている理由を丁寧にまとめました。最新トレンドを一目で把握できます。

関ヶ原の決戦において、宇喜多秀家率いる1万7000の軍勢は西軍屈指の精鋭として福島正則隊らと壮絶な激戦を繰り広げました。しかし、小早川秀秋の裏切りによって西軍は総崩れとなり、秀家は戦場からの離脱を余儀なくされます。一時は戦場へ引き返して切腹しようとした秀家を家臣が押しとどめ、伊吹山中へと逃亡しました。

落ち武者狩りを逃れた秀家は、かつて文禄・慶長の役で誼を通じた薩摩の島津義弘を頼り、約3年間にわたって薩摩国牛根(現在の鹿児島県垂水市)に身を潜めます。しかし慶長8年(1603年)、徳川の天下が定まる中で島津氏の立場を危惧した島津忠恒の説得を受け、家康へ出頭することを決意しました。

本来であれば西軍の首謀者として石田三成や小西行長と同様に即刻斬首となる立場でしたが、ここで強固な防波堤となったのが、正室・豪姫の実家である加賀前田家と島津家の必死の助命嘆願でした。豪姫の兄である前田利長は、徳川への臣従を示しつつも妹婿の命を救うべく幕府中枢へ働きかけを続けました。その結果、死罪を免れた秀家は駿府での幽閉を経て、慶長11年(1606年)、長男の秀高、次男の秀継らとともに八丈島へ配流されることとなったのです。これが、八丈島が幕府の公式な遠島(流刑地)として機能する端緒となりました。