伊藤博文の死因とハルビン暗殺の真相!安重根の凶弾と最後の言葉の要点を詳しく解説してご紹介します。

1909年10月26日午前9時すぎ、ロシアの特別列車でハルビン駅に到着した伊藤博文は、ロシア財務大臣ウラジーミル・ココツェフの出迎えを受けました。満州および朝鮮半島を巡る日露の懸案事項を協議するための非公式会談を終え、ロシア名誉陸軍の儀仗兵を閲兵しながらプラットホームを歩いていたその瞬間、悲劇は起こりました。

群衆の中に潜んでいた大韓帝国の民族独立運動家・安重根が、ロシア兵の隊列の隙間から飛び出し、至近距離(約5〜6メートル)から拳銃を連射。使用された凶器はベルギー製の小型自動拳銃「FN ブローニングM1900」であり、殺傷能力を高めるために弾頭に十字の切れ込みを入れたダムダム弾(拡張弾)が装填されていました。

公式検死記録および当時のロシア軍医・ブランソン医師らの検案書によると、伊藤の身体には3発の銃弾が命中していました。

  • 第1弾:右腕中央部を貫通し、右胸部肋骨の間から肺を貫いて左肺下に達する。
  • 第2弾:右肘関節外側を貫通後、右胸郭に侵入して腹腔内に達し、肝臓を破壊。
  • 第3弾:左肋骨上部から侵入し、腹膜を貫通して左腎臓付近に停止。

弾丸はいずれも体内で変形・破裂しながら重要臓器を次々と破壊しており、胸腔および腹腔内で急激な大出血を引き起こしました。列車内に運び込まれた伊藤に対し、随行医師やロシア側軍医が強心剤の注射や止血処置などの懸命な救命処置を行いましたが、銃撃から約30分後の午前10時00分頃、内臓破裂に伴う失血により絶命。享年68(満年齢)でした。