安重根が伊藤博文を標的とした暗殺理由は、旅順での公判記録(『安重根尋問調書』)に明確に残されています。安重根は伊藤の「罪状」として、乙巳保護条約の締結強要、大韓帝国軍隊の解散、閔妃(明成皇后)殺害への関与疑惑、東洋平和の破壊など15箇条を列挙し、自身の行為を個人的テロリズムではなく「大韓義軍中将としての正当な交戦行為」であると主張しました。
しかし、近代政治史の力学において最大の皮肉と評されるのが、「伊藤博文自身は急進的な日韓併合に慎重であった」という歴史的事実です。
山縣有朋や桂太郎ら陸軍を中心とする強硬派が早期の完全併合(植民地化)を主張していたのに対し、初代韓国統監を務めた伊藤博文は「財政的負担が大きすぎる」「時期尚早であり、内政改革と保護国化による自治育成が先決である」として、併合路線にブレーキをかける役割を果たしていました。1909年7月に閣議決定された「併合方針」に最終的には同意したものの、軍主導の即時断行には最後まで慎重姿勢を崩していませんでした。
結果として、伊藤という巨大な歯止めを失った日本政府内では強硬派が一気に主導権を握り、事件の翌年である1910年8月、日韓併合条約の締結へと急加速することになりました。