チョ・グクの悲劇を理解する上で外せないのが、当時の文在寅(ムン・ジェイン)政権が掲げた「検察改革」というパンドラの箱だ。文大統領の懐刀として大韓民国法務部のトップである法務部長官に指名されたチョ・グクは、強大な捜査権と起訴権を独占してきた検察組織の解体を目論んでいた。
これに対し、組織防衛に動いた大韓民国検察庁は猛烈な反撃に出る。長官就任の前後にわたって行われた家宅捜索は数十箇所に及び、家族のプライベートな通信記録から学術メモに至るまでが徹底的に押収された。大韓民国法務部と検察の全面衝突は、連日のようにニュース速報をジャックし、ソウル中心部の瑞草洞(ソチョドン)と光化門(クァンファムン)の広場をそれぞれ数十万人規模のデモ隊で埋め尽くす異常事態を招いた。
就任からわずか35日。激しい世論の反発と家族への捜査の手が狭まる中、チョ・グクは電撃辞任を余儀なくされた。それは司法改革の旗手が、自ら仕掛けた権力闘争の炎に呑み込まれた瞬間だった。