伊豆七島を地図上で眺めたとき、多くの人が抱くのが「静岡県の下田や熱海の方が圧倒的に近いのに、なぜナンバープレートも行政区画も『品川・東京都』なのか」という素朴な疑問です。この管轄境界の背景には、明治維新期における地方制度の再編と、江戸時代から続く海上交易の利害関係が深く刻まれています。
律令時代から江戸期に至るまで、これらの島々は「伊豆国(現在の静岡県伊豆地方)」に属していました。明治維新後の廃藩置県期(1871年)には韮山県、足柄県を経て、1876年(明治9年)に一度は静岡県に編入されています。しかし、当時の静岡県庁にとって、海を隔てた遠隔離島の統治やインフラ整備、災害復旧は莫大な財政負担であり、行政の手が十分に届かない状況が続きました。
さらに決定的な要因となったのが、経済と物流の実態です。当時の伊豆諸島各島で生産されていた椿油、木炭、くさや、織物(黄八丈など)といった主要特産品は、下田を経由するよりも、消費地である「東京・江戸湊」へ直接船で運ばれる海上交通網が確立していました。島民の生活物資の調達先も東京が中心であり、実質的な経済圏は東京湾と結びついていたのです。
こうした実態を受け、内務省の主導および島民有志による陳情運動を経て、1878年(明治11年)1月11日、太政官布告により伊豆諸島全域が静岡県から東京府(現・東京都)へ公式に移管されました。島嶼部の治安維持、首都防衛、そして東京港を拠点とする物資流通の一元化を重視した明治政府の決断が、現在の「東京都島嶼部」というユニークな行政区分の礎となっています。