戦国時代という激動の渦中で、前野長康(将右衛門)ほど極端な運命の乱高下を経験した武将も珍しい。無名の野武士集団を束ねる頭目から、播磨、但馬へと転戦し、最終的には但馬出石5万石の大名へと昇り詰めた。その出世街道は、まさに秀吉の天下取りの足跡と寸分たがわず重なっている。
しかし、栄華の頂点は長くは続かなかった。秀吉の甥である豊臣秀次が関白に就任すると、長康はその筆頭家老兼後見役に抜擢される。これが彼の運命を大きく狂わせる分岐点となった。秀吉に待望の実子・秀頼が誕生したことで、政権内の権力構造は一変。文禄4年(1595年)、秀次に謀反の疑いがかけられた「秀次事件」が勃発する。
長康は秀次の無実を信じ、秀吉に対して必死の弁明を試みた。だが、老いに差し掛かった太閤の怒りを鎮めることはできず、秀次が高野山で切腹に追い込まれると、長康もまた命を絶つことを命じられた。義理と人情を貫き、自ら死を選んだその散り際は、今なお歴史ファンの涙を誘う。