結論から明確に言えば、「熊よけスプレーで助かった人はいない」という言説は客観的事実に反する完全な誤謬です。それにもかかわらず、なぜこのような極論がまことしやかに語り継がれているのでしょうか。そこには報道の構造と人間の認知心理が深く絡み合っています。
最大の原因は、メディア報道における「生還事例の不可視化」です。登山者や林業従事者がクマに遭遇し、スプレーを適切に噴射してクマを追い払った場合、人間側には怪我ひとつなく無傷で事態が収束します。こうした「何事も起きずに終わった危機回避」は、警察や消防への通報すら行われないケースが多く、全国ニュースとして大々的に報じられることはほとんどありません。
一方で、スプレーを持っていなかった人や、持っていたものの取り出せずに襲われて重傷・死亡に至った凄惨な人身事故は、連日センセーショナルにトップニュースで取り上げられます。この圧倒的な情報量の非対称性により、受け手側の心理に「襲われたら終わり」「助かった事例を聞いたことがない」という強い確証バイアスが形成されてしまうのです。
さらにネット上では「唐辛子エキスでクマが余計に激昂する」「風向きが変われば人間が失神して餌食になる」といった極端な誇張が一人歩きし、科学的根拠を欠いた都市伝説として定着してしまった経緯があります。