新選組の歴史は、外部の敵との戦い以上に「凄惨な内部粛清の連続」であったという過酷な側面を持っています。隊規「局中法度」に背いた者は容赦なく切腹または暗殺されました。
芹沢鴨暗殺事件の経緯:組織乗っ取りと主導権争い
文久3年(1863年)9月、初代筆頭局長であった芹沢鴨の暗殺は、会津藩の密命を受けた近藤・土方一派によって周到に実行されました。
商家への乱暴狼藉や大和屋焼き討ちなど暴走を繰り返す水戸派に対し、会津藩は試衛館派による処断を承認。八木邸での酒宴で芹沢を泥酔させ、深夜に土方歳三、沖田総司、原田左之助、山南敬助らが寝所に乱入して芹沢とお梅を惨殺しました。この事件により、試衛館派による完全な集権体制が確立されたのです。
油小路の変の真相:御陵衛士の壊滅と藤堂平助の悲劇
慶応3年(1867年)11月、新選組最大の内部抗争となったのが「油小路の変」です。参謀・伊東甲子太郎が勤皇思想のもとに隊を離脱し「御陵衛士(高台寺党)」を結成。これを危険視した近藤らは、伊東を酒宴に招いて帰路の本光寺門前で暗殺しました。
遺体を油小路七条の辻に放置し、引き取りに現れた御陵衛士の同志を待ち伏せして一網打尽にする作戦を決行。この際、試衛館以来の仲間であった藤堂平助は、近藤から「逃がしてやれ」との内意があったものの、事情を知らない隊士によって斬り伏せられ、24歳の命を散らしました。この粛清劇には、御陵衛士にスパイとして潜入していた斎藤一の密告が決定打となったことが明らかになっています。