市原悦子の真骨頂は、日常の優しさと隣り合わせにある「狂気」や「哀愁」を演じ分ける表現力にある。その最高峰として評価されるのが、1989年に公開された今村昌平監督の映画『黒い雨』だ。
井伏鱒二の小説を原作とした同作で、彼女は被爆の悲劇に見舞われた主人公の叔母・重子役を熱演。放射能の恐怖と過酷な現実に耐え抜く女性の情念をリアルに体現し、日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を獲得した。白黒画面の中で魅せた壮絶な演技は、観客の心に深い爪痕を残した。
一方で、彼女のもう一つの代名詞となったのが「声」の仕事だ。長年にわたり放送されたアニメ『まんが日本昔ばなし』では、常田富士男とともに何百もの登場人物を一人で演じ分けた。温かみと哀愁が入り混じった語り口は、日本中の子どもの心に刻み込まれている。強烈な毒を持つ女優としての顔と、包み込むような優しさを持つ語り部としての顔。この二面性こそが、彼女が昭和・平成の芸能界で唯一無二の存在であり続けた理由だ。