国内にとどまっていた政府首脳は欧米の反発を甘く見ていたが、その致命的な認識の甘さを現場で骨の髄まで思い知らされたのが、1871年(明治4年)末に出発した岩倉使節団であった。
特命全権大使の岩倉具視、副使の木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らは、幕末に結ばされた不平等条約の改正交渉を最大の目的としてアメリカ、ついでヨーロッパ各国へ乗り込んだ。しかし、ワシントンやロンドン、パリの交渉の席で彼らを待ち受けていたのは、条約改正の議論どころか、痛烈な非難の嵐であった。
久米邦武が編纂した公式記録『米欧回覧実記』や当時の書簡集には、使節団が受けた衝撃が生々しく記録されている。アメリカの国務長官ハミルトン・フィッシュや英国外相グランヴィルらは、席に着くなりこう突きつけた。
「信教の自由すら認めず、罪なきキリスト教徒を拷問・追放している野蛮な国と、対等な条約を結ぶことなど金輪際あり得ない」
使節団の行く先々では、キリスト教団体や市民社会から抗議文が叩きつけられ、新聞各紙は日本の残虐なキリシタン弾圧を連日書き立てた。大久保や木戸は、条約改正交渉を進めるための絶対条件が「キリスト教の解禁」と「浦上信徒の即時釈放」にあることを痛感させられたのである。
使節団から東京の留守政府(西郷隆盛、板垣退助ら)へ向け、悲鳴にも似た緊急電報と書簡が送られた。「キリシタン禁制を直ちに解かねば、日本の外交的孤立は避けられない」。追い詰められた明治政府は、使節団の外遊中であった1873年(明治6年)2月24日、太政官布告第68号を発布。「高札ヲ取除キ候事」と一行だけ記し、五榜の掲示を街頭から完全撤去させた。同時に配流されていた浦上の信徒たちを釈放・帰村させ、日本は事実上のキリスト教解禁へと大きく舵を切ることになった。