香港での成功を足がかりに、彼は活動の拠点を台湾へと移す。当時の台湾エンタメ界は、アイドルドラマの黄金期。ヒットメーカーとして知られるプロデューサーに見出された彼は、数々の話題作に出演し、現地での知名度を不動のものにしていった。
しかし、その華やかな表舞台の裏には、言語の壁という巨大な障壁があった。広東語から北京語へのシフト、そして演技の基礎を叩き込まれる日々。異邦人としての孤独を抱えながらも、彼は決して妥協しなかった。この台湾時代に培われたタフネスと、現地のカルチャーにしなやかに溶け込む適応力こそが、後の日本での大ブレイクを支える強力な土台となったのだ。