なぜこのような特異な姿の石仏が、諏訪大社下社春宮の目と鼻の先にある田圃の一角に作られたのか。その背後には、江戸時代初期に起きた不可思議な伝説と、諏訪の匠たちによる祈りの歴史が存在します。
記録および現地に伝承される話によると、万治年間(1658〜1661年)、諏訪高島藩第3代藩主・諏訪忠晴が、諏訪上社と並び称される諏訪大社下社春宮に壮麗な石鳥居を寄進することを決定しました。命を受けた石工たちが鳥居の笠石や柱に見合う巨大な石材を探し求め、砥川の清流沿いで見事な大岩を発見。工事用のノミを岩肌に打ち込み、石を割り始めたその瞬間、ノミの裂け目から真っ赤な血がドクドクと吹き出したと伝えられています。
驚愕と恐怖に慄いた石工たちは、石に宿る神仏の崇りを直感し、鳥居の石材切り出しを即座に断念(結果として春宮の鳥居は木造として建立されました)。石工たちは自らの不敬を詫び、神仏の怒りを鎮めるために、傷跡の残る巨石そのものを阿弥陀如来(一説には大日如来や民間信仰の石仏)の胴体とし、その上に端正な頭部を丁寧に彫り載せて手厚く供養しました。頭部の側面に「万治三年十一月一日」(1660年)と施主・願主の名が刻まれているのは、この供養の証左です。
地質学的・民俗学的な検証を行う専門家たちの間では、「石に含まれる酸化鉄や褐鉄鉱の成分、あるいは内部の赤土混じりの被圧地下水がノミ打ちによって湧き出て赤く見えたのではないか」という科学的解釈も示されています。しかし重要なのは、祟りの恐怖を単なる不可思議な事件で終わらせず、造仏巡礼という「祈りと和解のモニュメント」へ昇華させた当時の職人たちの精神性にあります。