事件の一報が城下に伝わると、江戸の町衆は驚くべき反応を示しました。被害者である意知に同情が集まるどころか、加害者である佐野政言を義士として熱狂的に称賛したのです。佐野が葬られた浅草の徳間寺には、連日多くの庶民が参拝に訪れ、線香の煙が絶えなかったと伝えられています。
佐野はいつしか「世直し大明神」と崇め奉られるようになりました。その背景には、折から続いていた「天明の大飢饉」や浅間山の大噴火による深刻な食糧難、そして米価の高騰がありました。困窮を極めた庶民の間で、田沼政権の金権政治や商人優遇政策に対する鬱屈した不満が爆発寸前にまで高まっていたのです。
暗殺劇は、民衆の目には「強欲な権力者を討ち果たした痛快な世直し」と映りました。意知個人の資質や志の高さとは裏腹に、父・意次の政治に対する庶民の怒りを一身に背負わされる形となったのは、歴史の残酷な皮肉といわざるを得ません。