全国に約3万社あるとされる稲荷神社の中で、社号に「成」の字を用いる神社は全国的にも極めて稀です。太皷谷稲成神社の正しい読み方は「たいこだにいなりじんじゃ」ですが、その表記のルーツは江戸時代中期にまで遡ります。
安永2年(1773年)5月15日、津和野藩第7代藩主・亀井矩貞(のりさだ)公が、城の鬼門にあたる太皷谷の峰に、京都の伏見稲荷大社から三神を勧請したのが始まりです。当時、城下町の安寧と藩民の幸福、そして領内産業の振興を願った矩貞公は、一般的な「荷を担う」意味を持つ「稲荷」ではなく、「すべての願い事が成就するように」「民の営みが豊かな実を結ぶように」との切実な祈りを込め、「稲成」の二文字を充てました。
神社関係者の古文書記録や社伝によると、当初は藩主専用の祈願所として厳重に管理され、一般庶民の参拝は禁じられていました。しかし、廃藩置県を迎えた明治期以降に広く一般へ開放されると、「願望成就の霊験あらたかな神社」として一気に信仰が拡大。特に商売繁盛や開運厄除だけでなく、「失せ物(無くしたもの)が見つかる神社」としての評判が全国へ広まり、現在に至る確固たる信仰基盤が築かれました。