『奥の細道』の序文には「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」という有名な一節があります。芭蕉が愛着のある深川の庵を手放し、自らを追い込むように旅立った理由には、文学的探求心だけでなく、いくつかの現実的・心理的な背景が存在しました。
第一に、西行法師没後500年、能因法師忌という象徴的な節目の年であったことです。芭蕉はかねてより、平安・鎌倉の漂泊歌人たちに深い畏敬の念を抱いていました。古人が命を削って歩いたみちのくの歌枕を自らの足で踏みしめ、その土地の風土から新たな詩情を掴み取ることこそが、俳諧師としての宿命であると確信していました。
第二に、「定住によるマンネリズム」への危機感です。日本橋での宗匠生活を捨てて深川に入った芭蕉ですが、深川での名声が高まるにつれ、門人たちからの贈答や訪問が日常化し、再び世俗的なしがらみに縛られつつありました。住み慣れた「草の戸」を明け渡す行為は、精神の澱みをリセットし、剥き出しの自己を再構築するための通過儀礼だったのです。
手記や門人の記録によれば、芭蕉庵の引き払いに際しては、門人たちとの送別会が連日催され、涙ながらの別れが交わされました。しかし、芭蕉が残した句は感傷に溺れることなく、「草の戸も住み替る代ぞ雛の家」と軽やかに未来を寿ぐものでした。ここには、別れの湿っぽさを嫌い、粋な挨拶として昇華させる一流の俳人の矜持がうかがえます。