日本の株式市場において「仕手筋の有名人」として真っ先に名が挙がるのが、兜町の風雲児と呼ばれた加藤暠(かとう あきら)氏と、「最後の相場師」の異名をとった是川銀蔵(これかわ ぎんぞう)氏です。莫大な資金力で株価を操った相場師の正体や手口、そして気になる現在の末路を紐解くと、彼らが歩んだ道は対照的でありながら、いずれも壮絶な結末を辿っています。
加藤暠氏は1970年代から1980年代にかけて投資家集団「誠備グループ」を率い、公認会計士や医師、会社経営者など数千人に及ぶ会員から資金を集めました。その運用資金は数千億円規模に達したと報じられています。「株は気合いだ」という信念のもと、宮地鉄工所(現・宮地エンジニアリンググループ)などの小型株に狙いを定め、圧倒的な買い煽りと資金力で株価を数十倍に跳ね上げました。しかし、1981年に東京地検特捜部により所得税法違反で逮捕され、組織は一度瓦解します。
晩年も相場への執念を失わず、2010年代には「般若の会」を結成。新日本理化などの銘柄を手掛け、再び市場を席巻しました。ところが2015年、証券取引等監視委員会による強制調査を受け、金融商品取引法違反(相場操縦)容疑で東京地検特捜部に再び逮捕。保釈後の2016年に病気のため75歳で死去し、公訴棄却となる幕引きを迎えました。莫大な富を動かしながらも、生涯を相場の魔力と当局の追及の中で終えた典型例といえます。
一方で、是川銀蔵氏は自らを「仕手筋」と呼ばれることを嫌い、徹底した企業調査に基づくファンダメンタルズ投資を標榜していました。自著『相場師一代』でも語られている通り、第一次オイルショック時のセメント株買いや、1981年の住友金属鉱山(菱刈金山)の大化け株への投資で約200億円の純利益を計上。1983年の長者番付(申告所得額)で日本一の座に輝きました。しかし、晩年は巨額の所得税追徴課税と相場の急変に苦しみ、95歳で世を去った際には多額の借金が残されたと伝えられています。