井筒の名を日本社会に決定的に刻み込んだ仕事といえば、岩波書店から刊行された『コーラン(日本語全訳)』をおいて他にない。1950年代後半、アラビア語の原典から日本語へ直接訳出されたこのテキストは、日本の出版文化史における燦然たる金字塔だ。
アラビア語特有の韻律、緊迫した預言者の肉声、砂漠の風土に根差した激烈な霊的迫真性。それらを日本語のリズムへと見事に移植した井筒の訳文は、単なる正確な直訳を超え、文学的香気すら湛えている。注釈のひとつひとつに注ぎ込まれた膨大な知の蓄積は、イスラーム世界への偏見が根強かった当時の日本において、正当な理解への扉を大きく開くものとなった。
岩波文庫版として今日でも版を重ね、多くの読者に読み継がれているこの訳書は、言葉という器を通じて他者の精神世界の核心へと跳躍する、井筒の卓越した実践そのものであった。