「勝てば官軍負ければ賊軍」の直接の由来となったのは、慶応4年(1868年)に勃発した戊辰戦争、その端緒となった「鳥羽・伏見の戦い」です。
大政奉還によって政権を朝廷に返上した江戸幕府でしたが、薩摩藩や長州藩を中心とする討幕派は、徳川家の完全な排除を目論んで軍備を整え、両軍は京都郊外で激突しました。開戦当初、徳川慶喜率いる旧幕府軍は約1万5000人規模であり、約5000人だった薩長軍を兵力で圧倒していました。戦術的にも旧幕府軍が主導権を握りうる戦況だったのです。
しかし、戦場を一変させる決定的な出来事が起きます。薩長軍の陣頭に突如として黄金の太陽と銀の月を刺繍した赤地の大旗――「錦の御旗(にしきのみはた)」が翻ったのです。
当時の錦の御旗は、朝廷下層の公家である岩倉具視らが中心となり、密かに密造して前線へ持ち込んだ政治工作の産物でした。朝廷から正式に授章の手続きを踏んだわけではない謀略に近いものでしたが、その視覚的象徴の威力は凄まじいものでした。薩長軍は文字通りの「官軍」へと神格化され、それまで国家に忠誠を誓い治安を担ってきたはずの徳川軍は、一瞬にして朝廷を脅かす「逆賊・賊軍」の汚名を着せられたのです。
朝敵になることを病的なまでに恐れていた徳川慶喜は、戦意を完全に喪失して大坂城から江戸へと逃亡。将を失った旧幕府軍は潰走し、明治維新の大きなうねりの中で敗者としての歴史を背負わされることになりました。勝敗が決定づけられた瞬間、薩長の謀略は「王政復古への栄光の決断」へと昇華し、幕府の正当性は消し去られたのです。「勝敗が決した瞬間に歴史が書き換わる」という強烈な体験が、この言葉を民衆の記憶へ永続的に刻み込みました。