神剣の歴史の中で最大の悲劇とされるのが、寿永4年(1185年)の「壇ノ浦の戦い」です。平家一門が追い詰められた際、平清盛の妻である二位の尼(平時子)は、わずか8歳の安徳天皇を抱きかかえ、「波の下にも都がございます」と言い残して三種の神器とともに壇ノ浦の関門海峡へ入水しました。
合戦後、海中から八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は奇跡的に回収されましたが、神剣だけは徹底した捜索にもかかわらず二度と発見されませんでした。この事件により「三種の神器の剣は壇ノ浦で永久に失われた」と語られることがあります。しかし、ここで沈没したのは熱田神宮の本体ではなく、宮中にあった「形代」でした。
剣を失った朝廷は一時混乱に陥ったものの、第82代・後鳥羽天皇を経て、続く順徳天皇の時代に伊勢神宮に奉納されていた霊剣(順輝の神剣)を朝廷に迎え入れ、正式な「新・形代」として宮中に安置する儀式を行いました。これにより、神道上の正統性を完全に維持したまま、現在の皇居へと至る承継ルートが再構築されたのです。