三重県の県庁所在地をめぐる最大の謎は、「県名が『三重』であるにもかかわらず、なぜ三重郡に属していた四日市ではなく津市に県庁が置かれているのか」という点に集約されます。三重県公文書館の記録や郷土史の記録を紐解くと、そこには明治初期における統治効率をめぐる熾烈な統廃合のドラマがありました。
1871年(明治4年)の廃藩置県当初、現在の三重県北中部には「安濃津県(あのうつけん)」が設置されました。県庁は当初津城下に置かれましたが、当時の参事らの判断により、交通の要衝であった三重郡四日市への県庁移転が計画されます。1872年(明治5年)、県庁が四日市に移転したことに伴い、郡名を採用して県名が「三重県」へと改称されました。この時点では、文字通り「三重県庁は三重郡四日市」に存在していたのです。
しかし、決定的な転機は1876年(明治9年)4月に訪れます。当時、伊勢神宮周辺から紀伊半島南部(志摩・南伊勢・東紀州)を管轄していた広大な「度会県(わたらいけん)」と三重県が電撃的に合併し、現在の三重県の版図が誕生しました。
南北に約170キロメートルにも及ぶ広大な新・三重県が誕生した結果、北端に偏っていた四日市では県南部の住民にとって著しく不便が生じることとなりました。そこで、新県全体の「地理的重心」かつ歴史的な中心地であった津に県庁を戻す政治的決断が下されたのです。県庁は津に移転したものの、県名はすでに中央政府で定着していた「三重県」がそのまま引き継がれました。これが「三重県庁所在地が津市である」というねじれの真相です。