昭和から平成にかけて、日本映画界には「脱いでこそ一人前」という歪んだ力学が確実に存在した。若手女優がキャリアのステップアップを迫られ、密室のオーディションで理不尽な露出を求められる。そんな暴力的な構造は、ここ数年の告発運動と労働環境の是正によって急速に解体された。
現在のキャスティング現場において、露出を伴うシーンは事前にミリ単位で契約が交わされる。撮影範囲、照明の当たり方、接触の度合い、モニターを閲覧できるスタッフの限定まで、すべてが書面化されているのだ。これは表現の萎縮を招くどころか、むしろ逆の効果を生んだ。「どこまで守られているか」が明確になったことで、俳優たちは恐怖心から解放され、キャラクターの深淵へと迷いなくダイブできるようになったからだ。
脱ぐか脱がないか、ではない。なぜこの場面で肌を晒さねばならないのかという「必然性の有無」を、女優自身が監督と対等に対話し、自らの表現として引き受ける。消費される側から、自律したクリエイターへ。この意識の変革こそが、近年の日本映画が放つ異様なまでの緊張感の正体である。