昭和から平成初期にかけて教育を受けた世代にとって、「日本最大の古墳=仁徳天皇陵」という呼称は疑いようのない常識でした。ところが現在の歴史教科書を開くと、「大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)」や「大仙古墳」といった表記が主流となっています。
この変更の契機となったのは、戦後の考古学における編年研究と厳密な実証主義の浸透です。江戸時代末期から明治初期にかけて、新政府は皇室の正統性を確立するため、全国の大型古墳を古代の天皇や皇族の墓として比定(指定)しました。堺の巨大前方後円墳も、平安時代の法令集『延喜式』の記述などを根拠に「第16代仁徳天皇の百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」として宮内庁の前身組織によって治定(じじょう)された歴史があります。
しかし、その後の考古学的な発掘成果や出土土器(須恵器・埴輪)の型式年代測定が進むにつれ、この古墳の築造時期は5世紀中頃から後半と推定されるようになりました。一方で、『日本書紀』や『古事記』の年代記述から復元される仁徳天皇の治世年代とは一定のズレが生じる可能性が指摘され、「現在の学術レベルでは被葬者を仁徳天皇と断定できない」という見解が学会の共通認識となったのです。
現在文部科学省の検定教科書では、地名に基づく客観的な遺跡名である「大仙(陵)古墳」を主見出しとしつつ、宮内庁による伝統的な治定名を併記する形が一般的となっています。これは歴史の否定ではなく、客観的な科学的データと歴史的伝承を区別して記述するという、実証的歴史教育への進化を意味しています。