この日招かれた織田茂和さんは、本当に信長の子孫なのでしょうか?
残念ながら、茂和さんが誰の末裔なのかを調べることができませんでした。
そこで、お二人が理事長と理事を務める「一般社団法人織田木瓜紋会」について調べてみましたが、 下記のツイッターを見ると、少なくとも2015年からすでに活動しているようですね。
同じ目標に向かって共に活動しているということは、 織田と明智の両家の和解は既にされていたことになります。
そして今回、信長の黒歴史ともいうべき「比叡山」を舞台にした行事に、両家が参列したことは、恨みを捨てたことを世に知らしめたと言えますね。
ところで、茂和さんは名前に「信」が使われていません。気になる記事がありましたので次にご紹介します。
子供の名前に「信」をつけるのをやめた19代当主の決断とは?
信長の二男、織田信雄(のぶかつ)の血を引く丹波柏原織田家の18代当主である織田信孝さん。
学習院を出た御曹司ながら、その後は様々な職を経て、現在は織田孝一という名前でフリージャーナリストをしているそうです。
また、次の19代当主となる息子の名前に「信」の字を使わなかったことで話題となりました。
こちらのサイトで信長より前の世代から続く400年以上の伝統を破り、子供の名前に「信」をつけなかった理由がわかります。
初対面の人が僕の出自を知ると、「すごいですね」とよく言います。ぜんぜんすごくないですよ。すごいのは信長で、僕が天下統一のお手伝いをしたわけじゃない(笑)。自分が、本質ではなく、血筋や出身校などの属性で判断されてしまうのは悲しい。そんなこともあって、自分の子どもは個人として生きやすくしてあげたかったのです。
出典:週間朝日https://dot.asahi.com/wa/2014111300075.html?page=2
この話からすると「一般社団法人織田木瓜紋会」の理事長織田茂和さんは、信長の二男信雄の子孫の可能性があります。
また、信雄の出生について次にご紹介します。
二男信雄は本当は三男だった?
「美濃のマムシ」と言われた齋藤道三を父親にもつ濃姫(帰蝶または胡蝶とも言われる)は、15歳で信長に嫁ぎました。
濃姫は正室でありながら、信長との間には子供がいなかったと言われています。
しかし、信長には11男9女の子供がいることがわかっています
また、信長には正室以外に9人の側室がおり、ほかにも名前の残っていない側室や妾も多数いたとの話もあるようです。
側室の中でも一番のお気に入りだったのが「生駒吉乃(いこまきつの)」です。豪族に嫁いだ未亡人で、信長が足しげく通い側室に迎え入れました。
しかし、その最愛の女性は病気がちで29歳で亡くなり、そのときばかりは信長も涙を流したと言われています。
子宝に恵まれた信長でしたが、父親に目をかけてもらえたのは長男、二男、三男だけだったようです。
ちなみに、信長の息子である長男と二男の生母は側室の生駒吉乃で、三男の生母は同じく側室の「坂氏(さかし)」です。
同じ側室とはいえ、吉乃は信長の寵愛を受け「正室扱い」だったと言われています。
そのためか、三男の信孝は、じつは二男の信雄より20日早く生まれていると言われており、母親の身分が低いために出生順位を遅らせたのでは?と言われています。
濃姫の記述はあまり残っていないらしく、信長との関係性は諸説あり、本当のところがわからないのですが、生母不明の子供が他にもおり、その中に濃姫との子供がいた可能性はあるようです。
信長の息子たちの足取りを調査してみた
- 長男:信忠 (本能寺の変により自害 享年26歳)
- 二男:信雄 (秀吉の家臣になるも、その後領地を没収され晩年は僧侶となる)
- 三男:信孝 (賤ヶ岳の戦いに敗れ自害)
- 四男:於次丸[おつぎまる](秀吉の養子 羽柴秀勝 病死)
- 五男:勝長 (岩村城主の未亡人の養子 本能寺の変により死亡)
- 六男:信秀 (秀吉の家臣になるも、晩年は僧侶となる)
- 七男:信高 (氏家家に預けられ、その後秀吉の家臣となる)
- 八男:信吉 (秀吉の家臣となる 羽柴武蔵守)
- 九男:信貞 (秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでの敗北により庶民となる)
- 十男:信好 (秀吉の家臣となる 茶人でもあった)
- 庶長氏:信正 (本能寺の変後、僧侶となる)
※ 庶長氏 とは正式な婚姻関係にない両親から生まれた子供の意。