なぜ中国は不在だったか?平和条約の盲点と緊迫する台湾海峡の深層

なぜ中国は不在だったか?平和条約の盲点と緊迫する台湾海峡の深層

なぜ中国は不在だったか?平和条約の盲点と緊迫する台湾海峡の深層について知っておくべき ポイントを分かりやすい構成で解説いたします。

1951年当時の国際情勢は、前年に勃発した朝鮮戦争によって一変していた。米国と中国共産党軍が朝鮮半島で直接刃を交える中、米国の対日講和特命大使ジョン・フォスター・ダレスは、日本の主権回復を急ぎつつ西側陣営の強固な防壁として組み込むシナリオを描いていた。

問題は、広大な大陸を実効支配した中華人民共和国と、台湾に拠点を移した中華民国のどちらを「正統な中国」として講和会議に呼ぶかという点だった。英国は自国の香港防衛や通商利益を見据えて北京政府を承認していたが、米議会や軍部は台湾の蔣介石を断固支持していた。議論は完全に決裂し、ダレスは「どちらも呼ばない」という奇策を選択した。

この決定に対し、北京の中華人民共和国外交部は即座に激しい怒りを爆発させた。外交部長(外相)を務めていた周恩来は声明を発表し、「連合国がソ連や中国を排除して取り交わす講和条約は不法かつ無効である」と徹底的に糾弾した。1943年のカイロ宣言で示された「台湾および澎湖諸島の中国への返還」という連合国の合意が反故にされた瞬間でもあった。

山崎 陸
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山崎 陸

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