漱石の月と並んで語られるのが、二葉亭四迷の「死んでもいいわ」だ。ロシアの作家ツルゲーネフの小説『あひびき』を翻訳する際、女性の「Yours(あなたのもの)」という告白を、彼はそう訳した。これら二つの表現に共通するのは、自己主張を極限まで抑え、相手と世界との調和の中に感情を溶け込ませる姿勢だ。
主語を曖昧にすることで生まれる、独特の情緒。欧米的な個人主義や、イエス・ノーをはっきりさせるコミュニケーションとは一線を画す、日本語ならではの美学がそこにある。言葉そのものの意味よりも、その言葉が発せられた状況や、二人の関係性という「コンテクスト」を重視する文化が、これらの翻訳(あるいは創作)を生み出したのだ。