鈴ヶ森刑場で執行された刑罰は、身分や罪状に応じて極めて厳格に規定されていました。幕府の基本法典『公事方御定書』に基づき、単なる斬首だけでなく、磔(はりつけ)、火炙り(ひあぶり)、獄門(ごくもん)といった極刑が科されたのです。この地で命を落とした人物の中でも、歴史に深く刻まれているのが「丸橋忠弥」と「八百屋お七」です。
慶安4年(1651年)、幕府転覆を企てた由井正雪の乱(慶安の変)に加担した軍学者・丸橋忠弥は、鈴ヶ森刑場の開設直後に処刑された最初の著名人として知られています。忠弥は槍の名手でありながら捕縛され、この地で磔刑に処されました。両手両足を縛り付けられ、2本の槍で左右の脇腹から交互に突き刺されるという過酷を極めた処刑の様子は、歌舞伎の演目としても語り継がれています。
天和3年(1683年)には、恋人に会いたい一心で自宅に放火したとされる少女・八百屋お七(享年16)が火炙りの刑に処されました。江戸の町を焼き尽くす火災は最大の重罪とみなされ、放火犯には例外なく火刑が適用されたのです。お七は馬に乗せられて江戸市中を引き回された末、鈴ヶ森の火炙り台で生きたまま薪の炎に包まれました。現場の壮絶な情景は、当時の町人たちに深い衝撃を与え、井原西鶴の『好色五人女』をはじめとする数々の文学作品へと昇華していきました。