秀吉の私生活と後継者争いを語る上で欠かせないのが、正室のねね(北政所・高台院)と、側室として男子を産んだ淀殿(茶々)の存在です。秀吉とねねは当時としては珍しい恋愛結婚で結ばれ、ねねは草創期から内助の功で家中を統率しましたが、二人の間に子どもは授かりませんでした。
そこで運命を大きく動かしたのが、織田信長の妹・お市の方と浅井長政の間に生まれた「浅井三姉妹」の長女である淀殿です。浅井三姉妹は長女の茶々(淀殿)、次女の初(京極高次正室・常高院)、三女の江(徳川秀忠継室・崇源院)という錚々たる顔ぶれで、戦国乱世の権力中枢に複雑に絡み合っていました。
淀殿は秀吉待望の長男・鶴松を産むものの、鶴松はわずか3歳で夭折。その後、1593年に誕生したのが次男の豊臣秀頼でした。これにより、豊臣家の権力構造は「ねねを中心とする尾張派の親族武将」と「淀殿・秀頼を擁立する近江派の側近勢力」へと二分され、深刻な内部亀裂を生み出すことになります。