前半生の華々しい成功物語とは対照的に、天下統一を果たした後の秀吉は、周囲を戦慄させる冷酷非情な決定を連発します。「晩年に性格が豹変した」と語られる主な出来事には、以下のような凄惨な史実が存在します。
- 豊臣秀次事件(1595年):甥であり関白を譲った秀次に謀反の疑いをかけ切腹させた上、秀次の正室・側室・幼子ら一族39名を京都三条河原で公開処刑。遺体を一つの穴に投げ込み「畜生塚」と名付けた。
- 千利休の切腹命令(1591年):茶道を通じて天下取りの盟友でもあった利休に対し、大徳寺三門の木像問題などを理由に自害を命じ、首を一条戻橋で晒し首にした。
- 無謀な朝鮮出兵(文禄・慶長の役):国内外の疲弊を顧みず、明確な補給計画を欠いたまま大軍を派遣し、数十万の兵と現地民衆を泥沼の消耗戦に巻き込んだ。
なぜここまで残虐性が剥き出しになったのか。歴史学および老年医学の視点からは、実子・豊臣秀頼の誕生(1593年)による後継者への盲目的な執着、長年の過酷な軍務による脳血管障害や認知機能の低下、そして絶対的な専制権力を握ったことによる「ブレーキの喪失」が複合的に絡み合っていたと分析されています。