1615年、大坂城の落城とともに豊臣秀頼とその母・淀殿は自害した。これにより、天下統一を果たした豊臣家は名実ともに崩壊したと記録されている。徳川家康が徹底した豊臣狩りを命じたのは周知の事実だ。政権の正当性を担保し、将来的な反乱の芽を完全に摘み取るためである。
当時、秀頼には幼い二人の子どもがいた。8歳だった男児の国松は、京都の六条河原で市中引き回しの末に斬首された。一方で、娘のなつ(後の天秀尼)は、秀頼の正室であった千姫(家康の孫)の必死の嘆願によって命を助けられる。彼女は鎌倉の東慶寺へと出家させられ、尼僧としての生涯を全うした。
1645年、天秀尼が子供を残さずに没したことで、徳川幕府の公式見解としては秀吉の直系血統は完全に絶たれたことになった。政治的意図によって固められたこの史実の裏側に、歪みや隠蔽は本当になかったのだろうか。