瀬戸内寂聴を語る上で、現在でもネット上で議論を呼ぶのが「若い頃の家族放棄」という消せない事実です。1922年(大正11年)、徳島県の仏壇職人の家に生まれた彼女は、秀才として知られ、東京女子大学国文科へ進学しました。戦時中の1943年、21歳で見合い結婚した夫・酒井佐吉とともに北京へ渡り、そこで長女を出産します。
終戦後に日本へ引き揚げてきた後、徳島で平穏な生活を送るかに見えましたが、彼女の運命は激しく狂い始めます。夫の教え子であった年下の青年と許されぬ恋に落ちた彼女は、夫と当時まだ3歳だった実の娘を徳島に残し、男の後を追って出奔したのです。この事件は、当時の封建的な社会倫理からは到底許されない背信行為であり、親族や世間から激しい非難を浴びることになりました。
その後、青年とも別れ、東京で作家を志しながら職を転々とし、同人誌『文學者』に参加。1957年に『女子大生・曲愛玲』で新潮社同人雑誌賞を受賞するものの、続く官能的な私小説『花芯』が文壇から「子宮作家」と激しいバッシングを受け、文芸誌から数年間にわたり締め出されるという屈辱を味わいます。それでも彼女はペンを捨てず、1961年に『田村俊子』で田村俊子賞、1963年に自身の三角関係を生々しく描いた『夏の終り』で女流文学賞を受賞し、作家としての確固たる地位を確立しました。
しかし、文名が高まれば高まるほど、「3歳の娘を捨てた母親」という痛烈な自責の念が彼女の内面を苛み続けました。長女とは後年、大人になってから劇的な再会を果たし、最終的には深い和解に至ったものの、幼子を引き離したという原罪の意識こそが、彼女を出家へと駆り立てた最大の心理的マグマであったことは間違いありません。