歌麿以前の美人画は、いわば記号だった。誰を描いても同じような切れ長の目、同じような瓜実顔。着物の柄を変えることで辛うじて身分を判別させるような、様式美の牢獄に閉じ込められていたのだ。
歌麿はそれを壊した。顔を画面いっぱいにクローズアップする「大首絵」という劇薬を持ち込み、女たちの微かな表情の揺らぎをカンバスならぬ和紙の上に引きずり出した。朝起きたばかりの乱れ髪。煙管をくゆらせる物憂げな視線。手紙を口にくわえて物思いに耽る横顔。そこにいたのは、理想化された偶像ではなく、血の通った生身の人間だった。
彼は吉原の遊郭に深く沈み込み、遊女たちの生活の澱(おり)まで見つめ続けた。単なる客として通ったのではない。華やかな格子窓の裏側にある借金、嫉妬、病、そして刹那の諦念。そのすべてを網膜に焼き付けた。美の極致を描きながら、同時にその裏の残酷さを一枚の絵の中に同居させる。この徹底したリアリズムこそが、歌麿という人間の根底にあった狂気である。