太平洋戦争の空襲によって、大阪や東京に所有していた劇場の多くが焼失し、吉本興業は壊滅的な打撃を受けました。しかし戦後、せいは弟たちとともに焼け跡から立ち上がり、劇場の再建や映画館への業態転換など、驚異的な執念で会社の復興を進めました。
多忙を極める中、せいの体を病魔が蝕みます。戦後の混乱がようやく落ち着きを見せ始めた1950年(昭和25年)3月14日、吉本せいは急性肺炎および肺がんのため、西宮市苦楽園の自宅で静かに息を引き取りました。享年60。波乱に満ちた人生の幕引きでした。
亡くなる直前まで会社の将来と芸人たちの処遇を気にかけていたと伝えられています。一軒の古びた寄席から出発し、日本のエンターテインメント産業に革命をもたらした女性の死は、当時の演芸界に大きな衝撃を与えました。