龍興の治世において最大の失政として語られるのが、1564年(永禄7年)に起きた竹中半兵衛(重治)による稲葉山城乗っ取り事件です。わずか16名(諸説あり)の手勢で難攻不落の名城を電撃的に占拠された失態は、龍興の無能さを証明する決定打として語り草になってきました。
この事件の真層は、単なる「放蕩主君への私的な諫言」などという美談ではありません。実態は、台頭する側近層(斎藤飛騨守ら)に反発した外様有力国人層による、周到に計画された軍事クーデターでした。半兵衛の岳父であり、西美濃の大物領主であった安藤守就が背後で呼応していた事実が、構造的な権力闘争であったことを物語っています。
驚くべきは、城を奪われた後の展開です。龍興は鵜飼山城、次いで祐向山城へと退避しながらも体制を立て直し、有力家臣団との調停を進めました。信長からの城引き渡し要求を半兵衛が拒絶し、最終的に約半年で城が龍興へ返還された事実は、龍興体制が完全に崩壊していたわけではなかった証左といえます。
しかし、重臣層との亀裂は修復不能なまでに深まっていました。西美濃を牛耳る美濃三人衆(稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全)は、信長からの執拗な調略と軍事的威嚇に抗しきれず、ついに龍興を見限って織田方へ寝返ります。1567年(永禄10年)、信長による総攻撃を受けた「稲葉山城の戦い」において、龍興は孤立無援となり落城を余儀なくされました。龍興はこの時、城を枕に討ち死にする道を選ばず、夜陰に乗じて木曽川を小舟で脱出。伊勢長島へと逃れて再起を図る道を選択しました。この潔からぬ撤退劇も「臆病」と罵られる一因となりましたが、後年の行動を見る限り、それは信長への復讐を誓った冷徹な戦略的撤退でした。