ひめゆりの塔と沖縄戦の真相|学徒隊の悲劇とガマの実態を徹底解説

ひめゆりの塔と沖縄戦の真相|学徒隊の悲劇とガマの実態を徹底解説

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1945年5月下旬、首里の第32軍司令部が南部へ撤退する決定を下したことに伴い、陸軍病院も南風原を脱出し、激しい砲撃に晒されながら本島最南端の糸満方面へと移動しました。学徒隊も分散し、その一部が身を潜めたのが、現在のひめゆりの塔の真下に位置する「伊原第三外科壕(自然洞窟=ガマ)」です。

そして6月18日深夜、絶望的な戦況の中で突如として軍から下されたのが「解散命令」でした。この命令は、事実上の戦場放棄であり、防護手段も武器も持たない10代の少女たちを、米軍が包囲する猛砲火の中へ放り出すことを意味していました。ある生存者は当時の状況について、次のように手記や特番インタビューで語っています。

「解散と言われても、外は昼夜を問わず艦砲射撃と爆撃の嵐。壕を一歩出れば即座に撃たれる状況で、どこへ逃げろというのか。真っ暗闇の中に放り出された恐怖は言葉になりません」

運命の日は翌6月19日未明に訪れました。伊原第三外科壕は米軍によって完全に包囲され、投降勧告がなされた直後、壕の上部にある開口部から黄燐弾や催涙ガス弾、火炎放射器による攻撃が加えられました。壕内には軍医や看護婦、兵士、そしてひめゆり学徒隊の生徒・教師ら約100名が密集していましたが、一瞬にして猛煙と有毒ガス、熱風が充満し、壕内にいた学徒の多くを含む80名以上が非業の死を遂げました。奇跡的に生還できた学徒はごくわずかでした。

犠牲となった学徒の多くは、家族との再会も叶わず、自らの名前を刻む間もなく暗闇の底で命を奪われたのです。

林 結菜
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林 結菜

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。