生目神社が「日向の生目様」として全国津々浦々にまでその霊験を轟かせている最大の理由は、主祭神である品陀和気命(応神天皇)とともに祀られている藤原景清公(平景清公)の由緒にあります。社伝によると創建年代は平安時代初期とも伝えられますが、中世以降、景清公の魂魄がこの地に鎮まって以降、眼病平癒の祈祷所としての性格が決定づけられました。
平家随一の勇士として「悪七兵衛」の異名をとった平景清は、平家滅亡後も源頼朝の命を狙い続けましたが、捕縛された後に「もはや源氏の繁栄を見るに忍びない」あるいは「敵ながら頼朝公の器量に感服し、仇敵を睨み据えた我が目を憎む」として、自らの両眼をくり抜いて天に放ち、日向の地に配流・隠棲したと伝えられています。その抉り取られた両目が落ちた場所が生目神社境内、あるいはこの地で没した景清公の目を祀った祠が起源とされ、武士としての壮絶な覚悟が「目を捧げて人々の眼病を代受苦する守護神」へと昇華していきました。
民俗信仰の視点から見ても、古代より湧き出る「生目霊水」への水神信仰と、景清公の悲劇的な英雄伝説が習合したことで、「失われた光を取り戻す聖地」としての強固な信仰構造が確立されました。江戸時代には諸国の商人や旅人が病気平癒の御礼に訪れるなど、日向屈指の霊験地として名を馳せるに至ったのです。