大牧温泉が「船でしか行けない宿」と呼ばれる背景には、大正から昭和初期にかけて行われた大規模な電源開発の歴史が深く刻まれています。開湯は1183年の倶利伽羅峠の戦いにおいて、平家の落武者が河原から湧き出る湯で傷を癒やしたことに端を発すると伝えられます。長らく庄川の谷底に湯治場として栄えていたこの地は、1930年(昭和5年)の小牧ダム完成によって激変の時代を迎えました。
ダム湖の湛水(たんすい)に伴い、周辺の集落や道はすべて湖底へと沈みました。通常の温泉街であれば移転や廃業を余儀なくされるところですが、温泉旅館の創業者は源泉の湧出地である断崖絶壁の高台へと宿を移築。道路網の整備が地形上不可能だったことから、物資と宿泊客の輸送手段として湖上の定期航路を選択しました。これが、日本海側でも極めて稀有な「船でしか辿り着けない秘境の一軒宿」が誕生した決定的な瞬間です。
昭和後期から平成にかけては、日本テレビ系の火曜サスペンス劇場やテレビ朝日系の土曜ワイド劇場など、名だたる2時間ドラマのロケ地として頻繁に登場しました。一度船が港を離れれば翌朝まで物理的に脱出できないという特殊な環境が、「完全密室のミステリー舞台」として制作者たちの想像力を掻き立てたのです。2026年現在も、その隔絶された立地構造は変わることなく保たれ、俗世と切り離された圧倒的な非日常を旅人に提供し続けています。