八代目文楽のレパートリーは決して多くはなかった。自分が「完璧に演じ切れる」と納得した十数席のみを生涯にわたって磨き続けたからだ。その中でも、現代のファンがまず触れるべき代表作が『愛宕山 (落語)』『大仏餅』『富久』の三席である。
上方落語由来の『愛宕山』では、幇間(たいこもち)の一八が繰り広げる滑稽さと哀愁を、軽妙かつ華麗なテンポで描き出す。谷底へ投げられた小判を拾うため、傘をパラシュート代わりにして飛び降りる場面の描写は圧巻の一言。文楽の口演を聴けば、京都の澄み渡る青空と断崖絶壁の風景が目の前にありありと立ち現れる。
一方、人情の機微と江戸っ子の意地を描いた『富久』や、張り詰めた空気の中で職人の矜持が光る『大仏餅』では、台詞の端々に滲む人間の業や温かさが胸を打つ。登場人物の誰も悪人に仕立てず、市井の人々の営みを愛おしくすくい上げる視線。これこそが、文楽の高座が今もなお感動を呼ぶ最大の理由だ。